放送作家・脚本家の小山薫堂とフリーアナウンサーの宇賀なつみがパーソナリティをつとめるTOKYO FMの番組「日本郵便 SUNDAY’S POST」。3月6日(日)の放送では、「セーラー服の誕生 女子校制服の近代史」の著者で日本大学商学部 准教授の刑部芳則(おさかべ・よしのり)さんをゲストに迎え、お届けしました。
(左から)宇賀なつみ、刑部芳則さん、小山薫堂
商学部の准教授として教鞭を執る刑部さんですが、もともとは歴史の研究をしており商学部でも日本史を教えているそう。
なぜセーラー服に焦点を当てた本を書いたのかというと、「日本の女性がどうして洋服を着るようになったのか、その原点を探っていこうと考えたところ、セーラー服を研究するのが一番いいのではないかと思って研究を始めた」ときっかけを語ります。
そもそも、セーラー服はイギリス海軍の水兵の服が始まりだと刑部さん。「海軍の水兵の服には諸説あるんですけど、海に落ちたときに脱ぎやすいから襟が大きいとか、船の上で音を聞くのに聞きやすくするために襟を大きくしているなどいろいろあって、もともとは軍人の服だったんです。
19世紀当時、イギリスのヴィクトリア女王が子どもたちに着せたことによって、イギリスを中心としてヨーロッパ各国、欧米諸国で、子ども服という形で非常に人気が出て広がっていった」とその歴史を解説します。
刑部さんによると、日本に最初にセーラー服が入ってきたのは海軍だったそう。「幕末に幕府の海軍の水夫たちが着て、それが明治のはじめに帝国海軍の水兵服という形で入ってくるんです。欧米諸国でもセーラー服が子ども服みたいな形で普及していましたから、日本でも皇族や華族の間で子ども服として広まっていくんですね。昭和天皇も小さい頃はセーラー服を着ていました」と説明。
その後、セーラー服は子ども服として男女問わず広がっていくなか、1919(大正8)年に服装改善運動が起き、「文部省を中心に、明治時代から引き継がれてきた着物の欠点をどう克服するか、どうやって洋服を日本に取り入れていくのか、諸々決着をつけようということで、かなりの有識者たちが集まって“実践していこう”という動きが始まっていくんですね。
そうすると、有識者のなかで校長をしている人の学校から実践していくことになり、このあたりから洋式の制服がぽつぽつと現れ始めた」と話します。
1921(大正10)年9月、愛知県の名古屋にある金城学院(旧・金城女学校)が日本で初めてセーラー服を制服として採用。当時、金城学院に外国人の教員がいて、「その娘さんがセーラー服を着ていたんです。金城学院の場合、1920(大正9)年からなるべく洋服で通学するように、という動きになったところ、女の子たちが『先生の娘さんが着ているセーラー服が素敵だ』と。『自分たちも同じモデルのものを作ろう』と言って、各々が仕立てていったら、制服ではないんだけどみんな同じデザインになっていったんです」と補足すると、宇賀は「自発的だったんですね」とビックリ。
刑部さんは「1年経ったときに、みんなが同じようなセーラー服をこれだけ着てくるんだったら、学校がいっそのこと、これを制服として採用しようと。それが1921(大正10)年9月なんですよ」とうなずきます。
その後、セーラー服が制服として広がっていった背景について「当時の女子生徒たちにとって、高等女学校に通っていることはエリートの象徴でもあったんですね。セーラー服さえ着ていれば、誰が見ても高等女学生だという判断がつくのも人気の1つだったんですよね」と分析していました。
なお、刑部さんの著書「セーラー服の誕生 女子校制服の近代史」(法政大学出版)では、金城学院のセーラー服をはじめ、さまざまな学校のセーラー服が掲載されており、宇賀はそれらの写真を眺めながら「東洋英和女学院や東京女学館、富士見中学校高等学校とか私は近かったので、よく見ました。見るとどこの学校かわかりますもんね」と懐かしんでいました。
刑部さんの著書「セーラー服の誕生 女子校制服の近代史(法政大学出版)」
<番組概要>
番組名:日本郵便 SUNDAY’S POST
放送日時:毎週日曜 15:00~15:50
パーソナリティ:小山薫堂、宇賀なつみ
番組Webサイト:
https://www.tfm.co.jp/post/